クリニカ・メモリーズ 後編

3.ハミガキフレンズ

 1987年4月。アイナは白獅子女子学園に入学した。これから6年間、この学校で青春を謳歌しようと期待を胸にふくらませるアイナだった。
 今度入った学校では給食はなく、昼食は弁当持参か購買で買うかのどちらかとなる。昼休みは各々が自分の行動をとればよい自由さを含んでいた。
 アイナは中学生となってからは、小学校でやっていた昼歯みがきをしなくなった。今の学校では昼食後の歯みがきは特に義務化されておらず、生徒は誰も校内で歯みがきをしていない。アイナもそんな周囲の雰囲気につられるかっこうとなった。
「せめて、このぐらいはしておこうっと」
 アイナは水道の蛇口から出る水を両手ですくい、口に水を含みブクブクと口の中をすすいだ。これぐらいでは歯の汚れは十分落とせない。まして歯垢は強力に歯に粘着しているうえ水に溶けないから、決して取れない。それはアイナもわかっていた。あくまで「何もしないよりはマシ」のおこないで、気休め程度に口をすすぐのだ。そんな状況が1週間、2週間と続いていた。
(うー……こうお昼に歯をみがかずにいる日が続くと、だんだんと口の中が気持ち悪くなってくる……)
 昼休みの後の授業中、アイナはそんなことを思った。1日2日だけならば、昼歯みがきを省略してもあまり気にならない。しかしこれが2週間も続くと話は別だ。歯みがきをせずにいることで午後の授業に身が入らなくなっているのを、アイナ自身も感じ取っていた。
(やっぱりお昼に歯みがきしようかな……でも他の人は誰もしてないし……ひとりだけでみがくのは目立って恥ずかしいなー)
 その日の授業が終わり、アイナは下校すると足早に自宅へと向かった。そして自宅に到着するなり、カバンを放り投げ一直線に洗面台へと走っていった。
「あー! もうガマンできないっ!」
 アイナは即座にそこで歯みがきを始めた。夕方に洗面台からシャカシャカとみがく音が響く。その音と歯みがき粉の香りにレイコが気づき、洗面台をのぞきこんだ。
「アイナ! 帰ってたの?」
「あ、おはーはんははいあ(お母さんただいま)」
 アイナがふり向いて歯をみがきながら言った。
「どうしたのいったい? 帰ってくるなりいきなり歯をみがいて」
「んー……」
「ま、歯みがきがすんでから聞きましょうか」
 レイコはしばらく待つことにした。
「もう、お昼ごはんの後お口すすぐだけじゃ、気持ち悪ーい。だからさっき、家に帰ってからすぐ歯みがきしてたの」
 歯みがきを終えたアイナはそう訴えた。それにレイコが回答する。
「じゃ、お昼ごはんの後に歯みがきすれば? 小学校のときみたいに」
「できないよー。周りの人たち、誰もやってないもん。わたしひとりだけ歯みがきするなんて、恥ずかしくてできないよー」
「アイナ、あなた、歯みがきを『恥ずかしい』ことだと思ってるの?」
「え……いや、それは……」
「歯をみがくことはむしろよい習慣。それを他の人に見られたって、何も恥ずかしくはないと思うけど」
「うーん、それはそうだけど」
「それに、アイナは去年小学校で、ムシ歯が1本もないと表彰されたでしょ。その状態をこれからも維持し続けたいわよね?」
「うん、ムシ歯ゼロは続けたい」
「だったら、ほんのちょっと勇気を出して、お昼に歯みがきしてみましょ。もしかしたら、他の人がつられて歯みがきをするようになるかもしれないし」
「そうだね……」
 その後アイナは自分の部屋で、カラーボックスに置いていた小学校時代の歯みがきセットを取り出した。歯ブラシ・コップ、そして歯みがき粉はいつも家で使っているクリニカ。小学校の終わりのときから時が止まったかっこうとなっていた三つ道具は、再び始動しようとしていた。
「明日から学校で歯みがき、やってみよう。周りの目が気になるけど、もうこの際思い切って気にしないようにしよう」
 そう心に決めるアイナだった。

 次の日、アイナはカバンに歯みがきセットの袋を入れた。これで昼休みに歯をみがくつもりだ。
 昼休み、自宅から持参した弁当を食べ終えたアイナは、カバンを開け、歯みがきセットの袋を取りだそうとしたが、出しかけたところで手を止めた。昨日歯みがきをすると決めたものの、いざやるときとなると心に迷いが生じた。
 一度教室内を見回す。そしてアイナは首を強く横に振った。
(いやいやいや、この時点でもう周りの目を気にしてちゃダメでしょ! 勇気を出すのよ、わたし!)
 頭の中で想像する。「歯みがきする」と「やっぱり歯みがきしない」のふたつを天秤にかける。今のアイナの心境でどちらが下へ傾くか。
 気になる食後の口の中の汚れとニオイ。周囲の目がどうこうと言う前に、周囲に口のニオイをまき散らしていないか。そう考えたところで、口の中をキレイにしたい思いが少しだけ先行してきた。さらに昨日母親からも言われた「ムシ歯ゼロ」これもやはり維持していきたい。
 天秤が傾いた。「歯みがきする」のほうに。最後の「ムシ歯ゼロの維持」が決め手となった。それにはこれからも歯みがきが重要ではないか、ならば選択肢はひとつ。アイナは歯みがきセットを持って手洗い場へ一直線に向かっていった。
(歯みがきしよう!「校内で歯をみがいてはいけない」なんて校則はないんだし!)
 シャカシャカシャカシャカ……昼休みの校舎の一角で、歯をみがく音が聞こえる。意を決してアイナが歯みがきを始めた。
 通りかかる生徒の多くが、アイナのほうをチラリと見る。案の定だったが、アイナはとにかく気にしないことを考えながら歯をみがくのだった。
「あ、アイナ歯みがいてんのー? マッジメー」
 クラスメイトのひとりがアイナを見て、そんなことを言った。しかしアイナは軽くうなずくだけして、意に介さないようにするのだった。
(気にしない気にしない。マジメなことやって何も悪くはないんだから)
 約3分、アイナはすべての歯をみがき終え、白い泡をペッと吐いた。
「ふう、終わった……」
 アイナは口をすすぐと、安心感とスッキリ感が同時にやってきたように感じられた。ひとまず山を越えられたような感覚だ。
(あー、これこれ、このお口がスッキリとした感じ。これなら午後の授業も苦にならない)
 心も体もリセットされた気分のアイナ。身が引き締まり、眠気を誘われがちな午後でも真剣に授業を受けることができた。
 それから2回目以降は難なく歯みがきをできるようになった。一度自分から行動を起こしたことがきっかけで、もう何も恐れるものはないと思えるようになったからだ。周囲の生徒たちも、珍しさが薄まったからかだんだんと歯みがき中のアイナを見ることがなくなり、それでアイナの気が楽になったことも一因である。
(なんだ、最初からこうすればよかったんじゃない。わたしったらあんなに周りのことを気にしすぎてて、バカみたい)

 アイナが昼に歯みがきを始めてから1週間ほどたった日、歯をみがこうとしていたアイナの横から、声が聞こえた。
「あ、あの、仁川(にかわ)さん……」
 仁川はアイナの苗字である。即座にアイナは声に反応した。
「えっ、何?」
 そこにはひとりの生徒が、歯ブラシとコップを持って立っていた。見たところ印象は地味、あまり目立ちそうにないマジメ系少女といったたたずまいだ。
「あ、えっと確か、同じクラスの……」
「沢谷(さわや)ミオです」
「あ、そうそう、沢谷さん。もしかして、あなたも歯みがきするの?」
「はい、仁川さんが歯みがきしているのを見て、わたくしもお昼に歯みがきしようと思いまして」
「そっかー! ならうれしい! 他に歯みがきする人が出てきて」
「あの、ごいっしょにみがいても、よろしいでしょうか?」
「もっちろん! みがきましょ」
 思わぬ人が自分に続いて歯みがきをすると言い出したことで、アイナはややとまどいながらも、うれしい思いがわき上がっていた。
「あれ? 沢谷さん、歯みがき粉ないの?」
 ミオの手元を見て、アイナがたずねた。
「はい、わたくしの家は、歯みがきのときに歯みがき粉を使わない主義なのです」
「へー、どうして」
「親が『体に良くないから』の一点張りで、歯みがき粉の使用を一切禁止しているのです。代わりに使うのは塩です。塩を歯ブラシにつけてみがきます」
「うえー、しょっぱそうー」
「はい、わたくしはしょっぱいのがイヤなので、いつも歯ブラシには何もつけずにみがいています」
「沢谷さんは、歯みがき粉使いたくないの?」
「い、いえ、実は歯みがき粉どんなのか、一度使ってみたいとは思っていますが……」
「そっかあ……」
 アイナは少しの間沈黙とともに何かを考えている様子を見せた。するとアイナは、左手にクリニカのチューブを持ち、ミオに見せた。
「ねえ、試しにわたしのこれ、使ってみる? クリニカ」
「いや、ダメです。歯みがき粉を使ってしまっては、親から怒られてしまいます」
「ここなら親は見てないから、ナイショにしとけば大丈夫。使ってみてごらんよ、スッキリするよ」
「いえ、やはりそれは……」
「あのね、このクリニカってすごいんだよ。酵素が歯垢を分解しちゃうんだよ。ムシ歯を防いでくれるんだよ」
「ほ、本当ですか」
「そうだよ。わたし、小学校1年のときからクリニカ使ってるけど、これまでムシ歯になってないんだよ」
「それは……それなりに効果があるということですね。では……」
 ミオはアイナに向けて歯ブラシを差し出した。それを察知したアイナはすかさずクリニカのフタを開け、ミオの歯ブラシの毛につけた。
「初めて歯みがき粉をつけてみがきます……どんななのでしょう……」
 ミオは思い切って歯ブラシを口の中に入れた。奥歯のかみ合わせをみがく。
「ん、っ……!」
 ミオは歯ブラシをくわえたまま目を強くギュッと閉じ、険しい表情を見せた。それを見たアイナが心配そうにたずねた。
「どうかした?」
「大丈夫です……ちょっとピリッとしたもので、驚いただけです」
「ミントだからね」
「歯みがき粉というのは、ミントが入っているものなのですか」
「あー……そういうのも知らないんだ……」
 アイナとミオ、ふたりが並んで歯をみがく。アイナにとってこういうスタイルは小学校のとき以来だ。ふたりは歯みがきを終えると、お互いに顔を見合った。
「ね、スッキリしたでしょ」
「はい……さわやかで、歯を舌で触るとツルンとしているようです」
「それ、きっと歯垢が落ちたからだよ」
「あ、さきほどその歯みがき粉が『歯垢を分解』すると言ってましたね」
「そっ。歯垢はキチンと落とさないとね。ムシ歯になっちゃうから」
 ふたりはお互い笑顔で語り合った。
「じゃ、これからお昼にいっしょに歯みがきしよっか、沢谷さん……じゃなくて、ミオちゃん!」
 アイナはニッコリと、みがいたばかりのキレイな歯を思い切り見せながら言った。
「ミ、ミオちゃん……!」
「だって、こうして話ができてるんだから、もうわたしたち友達だもん。だからミオちゃんって呼ぶの。イヤかな?」
「いえ、むしろうれしいです。そう呼んでくれて。こちらからもよろしく、仁川さん……いや、アイナ!」
「うん、よろしくね!」
 歯みがきが新たな友情を築いた瞬間だった。

 翌日の昼休み、ミオは青い箱を手に持ってアイナのところへやってきた。
「歯みがき粉、わたくしのお小遣いで買いました」
 ミオが持っていたのは、まだ箱から出していないクリニカだった。
「あ、ミオちゃんもクリニカにしたんだ。でも、なんで箱のまま?」
「家で箱から出して、箱を捨ててしまうと、わたくしが歯みがき粉を使っていることが、親にバレてしまいますから。それで学校まで箱入りで。では出しましょう」
 ミオはそう言いながら、箱からクリニカのチューブを取り出した。
「クリニカにした理由は?」
「これしか使ったことないので」
「あ、そうだったね」
 ふたりがそんな会話をしていると、そばから声が聞こえてきた。
「ねえ、わたしたちも入っていい?」
 そこにいたのは、アイナたちのクラスメイト2名。そのうちのひとりは、以前歯みがきをしているアイナのことを「マジメ」と茶化した子だ。
「あなたたちを見てたら、わたしも歯みがきしてみようかなって思って。食べた後のお口のニオイ気になるし。だから歯みがき始めるの! それとアイナ、こないだは『マジメ』なんてからかって、ごめんね」
「それはもういいよ。いっしょに歯みがきする人が増えてくれると、うれしいから」
 だんだんと校内で歯みがきの輪が広がっていく、アイナはそう感じていた。
「あ、それクリニカ? 歯垢を分解する酵素入ってるやつだよね。いっぺん使ってもいい?」
「はい、わたくしのはまだ新品ですよ」
「ありがと」
 クリニカが友情をつなぎ合わせている、そんな雰囲気が校内の一角を包んでいるようだった。


4.プラークコントロール

 白獅子女子学園を卒業したアイナは、1993年4月から城南(じょうなん)歯科大学に入学した。
 歯科大を志望したのは、進路指導での教師の助言がきっかけだった。アイナは白獅子女子学園で生徒の歯みがきの「先駆者」となり、やがてそれが多くの生徒にまで広まった。アイナが校内歯みがきの普及に貢献したこと、またアイナ自身が健康な歯を保っていることから「歯科医師になって、歯や口の健康を守る仕事をしてみてはどうか」と言われたことからだった。それからアイナは一心不乱で受験勉強に取り組み、なんとか合格。
「こどものころ、あんなに歯医者さん嫌いだったのに、まさかわたしがその歯医者さんを目指すことになるとはね。人生何があるかわかんないわ」
 とにかくこれから6年間、歯科医師を目指しみっちりとこのキャンパスで学ぶこととなる。

「ねえ、アイちゃんでしょ?」
 講堂内でアイナを呼び止める誰かの声がした。
「え!?」
「仁川アイナちゃんでしょ。わかる? あたしよ、光岡(みつおか)リサ」
「えーっ! リサちゃん? 小学校のとき友達だった?」
「そうだよ。ひさしぶりだね、アイちゃん」
「リサちゃん、小学校3年でクラス別になって、しばらくしたら見なくなったから、気になってたんだよ」
「小3の途中で転校しちゃったからね。でもまさか、ここでアイちゃんと会えるなんて思わなかったよ」
「それはわたしだって同じよ。でもまあ、こうして再会できたことだし、お互い切磋琢磨し合って、歯科医師目指してがんばっていこうね」
「オーケイ! グッ」
 リサは右手親指を立てた。

 城南歯大は歯科大学ということもあり、また学内に歯みがき場があるので、昼に歯みがきをする学生が多い。今度は周囲が皆歯科医師を目指す者たち。歯みがきは当然のことのように見られている。アイナは前の学校よりは気楽に歯みがきに臨めた。
「何年ぶりかな、こうして並んで歯みがきするの」
 アイナはリサの隣で言った。アイナとリサ、ふたりはそろって昼食後の歯みがきをしようとしているところだ。
「小学校2年のとき以来だから、10年ぶりくらいかな」
 リサは当時を懐かしんだ。ふとアイナの手元へと目が行く。
「アイちゃん、歯みがき粉、今もクリニカ使ってんだね」
「うん、あのころから、ずっとこれだよ」
「クリニカも発売されてから、もう10年を過ぎたんだよね」
「もしかして、リサちゃんもクリニカ?」
「ううん、あたしが今使ってるのはこれ」
 リサは手に持っている歯みがき粉を見せた。ホワイト&ホワイトライオン。クリニカよりも10年以上前に発売された、歴史ある品だ。
「おお、ロングセラーのホワイト&ホワイト。リサちゃん、確か小1のときにも使ってたことあるよね」
「そっ、結局これに戻っちゃった。クリニカも悪くはなかったけど、やっぱりミントの刺激が足りないのよね。刺激はホワイト&ホワイトのほうが上。これだってモノフルオルリン酸ナトリウム配合だから、ムシ歯予防効果はあるのよ」
「最近、多くなったよね、フッ化物配合の歯みがき粉。クリニカに入ってるのも同じモノフルオルリン酸ナトリウム」
「みがき続けて歯質を強くして、酸に負けない歯にしましょ」
 いかにも歯大生といった会話が、アイナとリサの間ではずんでいた。

 時は流れ、アイナ大学2年生、1994年の秋のことだった。
「クリニカ、パッケージのデザインがガラリと変わっちゃったね……」
 アイナが長年愛用してきたクリニカは、この年新たに「PCクリニカ」と改称したのだった。PCクリニカとなったアイナの歯みがき粉を見て、リサは言う。
「新しくなって、何か変わったことがあるんじゃない?」
「いや、これ裏側に『販売名 クリニカDFCライオン』って書いてあるのよ。つまりこれ、名前だけ変えて中身はいっしょ、ってことだよね? あ、あと箱に書かれてる成分の記載見てみたら、グルコン酸クロルヘキシジンが書かれてなかった。もうこれを入れなくなった、ってことだよね」
「アイちゃん、すごい細かいところまでチェックしてるんだね……」
「うん、なんたってわたし、クリニカとは13年のつき合いだからね。それぐらいのことはわかるよ」
「たいしたもんだー」
 アイナはチューブに書かれた「PCクリニカ」の文字を見て、ポツリとこう言った。
「『プラークコントロール』を一般向けの言葉にするとはねー」
 プラークコントロール。歯科の分野で「歯垢(プラーク)の除去、および付着防止」を意味する言葉。これは歯科の世界では知られた言葉だが、一般向けではない。PCクリニカの「PC」は、プラークコントロールの略語。その言葉が商品名に使われているのである。
「そういや教授のひとりが言ってたね。『これからの歯科医療は、治療よりも予防に重きを置くようになってくる。そのためにプラークコントロールは重要だ』って。PCクリニカもそのあらわれじゃないかな」
「予防に重き、か。わたしたちがドクターになるころ、どう変わってるだろうね」
「歯ブラシだけでなく、デンタルフロスや歯間ブラシでの掃除も一般化していたりして。というか、そうなるべきだよね」
「あ、そうそう、歯ブラシといえば、PCクリニカは歯ブラシも新しく発売したんだよ。ほらこれ」
 アイナは自分の歯ブラシをリサに見せた。
「へー、ずいぶんとちっちゃいヘッドの歯ブラシねえ」
「うん、だから動かしやすくてみがきやすいの。これからはこのタイプが主流になるんじゃないかな」
「かもね。あたしも今度、その歯ブラシためしてみようかな」

 ひたすら勉強・実習の多忙な日々に追われつつ、城南歯大で6年間ともに学んだアイナとリサ。ふたりは無事歯科医師国家試験に合格し、歯科医師としての第一歩を踏み出した。


5.40年

 そして現在、2021年。アイナは結婚し、同じく歯科医師である夫とドクター2人体制を敷くクリニックを営み、2人の間には娘がひとり生まれた。
 アイナが歯科医師となってから、愛用のクリニカには様々な変化があった。

 PCクリニカに加えて「ムシ歯になりやすい人のクリニカ」という直球の名前のクリニカが出た。
 のちにそれは、ムシ歯リスクをケアするクリニカ→クリニカムシ歯プロテクト→クリニカアドバンテージと変遷した。
 やがてPCクリニカは元の「クリニカ」に戻った。
 クリニカは清掃剤が水酸化アルミニウムから無水ケイ酸に変わり、密度が軽くなったことで内容量は150gから130gになった。
 配合のフッ化物がモノフルオルリン酸ナトリウムからフッ化ナトリウムに変わった。
 歯垢除去・ムシ歯予防に加えて、歯のホワイトニング効果のあるクリニカも登場した。
 その後クリニカは廉価化のためか、長年売りとしていた歯垢分解酵素デキストラナーゼは配合されなくなり、歯垢分散成分テトラデセンスルホン酸ナトリウムにとって代わった。(クリニカアドバンテージは従来どおり酵素配合)
 クリニカアドバンテージのフッ化物含有量が1000ppmから1450ppmに引き上げられ、より高いムシ歯予防効果を謳うようになった。
 歯グキ下がりによる質の弱い歯根のムシ歯を予防するためのクリニカも出た。
 クリニカシリーズは歯みがき粉・歯ブラシだけでなく、デンタルリンス・デンタルフロスにまで広がっていった。

 現在のクリニカは「予防歯科」をテーマに販売されている。アイナの歯大時代に教授が言った「歯科医療は治療より予防に重きを置くようになる」は、まさに現実のものとなりつつある。
 ある日、アイナはクリニックで現在愛用中の歯みがき粉「クリニカアドバンテージ」を手に取り、見つめていた。
「アイナ先生、何してるんですか」
 口をはさんできたのは、アイナのもとで勤務する歯科衛生士だった。
「あ、このクリニカ、発売からもう40年になるのねーと、しみじみと」
「へえ、そんな昔からあるんですね」
「そうよ。チューブだって、今はすっかりこういうタテ置きが主流だけど、以前は細長いヨコ置きの形が多かったのよ」
「そうなんですか? わたし歯みがき粉といったら、タテ置きが当たり前と思っていました」
 20代との世代間の差を痛感するアイナだった。

 その日の晩、アイナはパソコンからオンラインビデオ通話をしていた。
「ひさしぶりー。ごめんね、最近あまりお話できなくて。また忙しくなってきて」
「いいのよ。このご時世、忙しいってことが、ありがたいことなんだから」
 話し相手は母・レイコ。画面に映るレイコの顔はすっかり年老いている。アイナが話を切り出す。
「ミオちゃん、最近また新作出したんだって」
 中学・高校時代に同級生だったミオは、現在ライトノベル作家をやっている。プライベートでは4人の子を持つ母親である。
「いちばん上の子はもう20歳過ぎてたっけ。あと新作の『ハミガキフレンズ』これ主人公のモデルが中学・高校時代のわたしなんですって。なんかこっぱずかしいわ」
「まあ、それだけアイナとの思い出が深く残っているってことじゃない?」
「そうかな。あ、あとリサちゃん、先月自分のクリニック、開業したんだよ」
 アイナは写真を出して画面の向こうのレイコに見せた。そこにはリサの姿と「RISAデンタルクリニック」の看板が写っている。小学校のときに出会い、歯科大学で再会してともに学んできたリサは、今や一クリニックの院長だ。
「リサちゃん、今も独身だって。おそらくこのまま結婚しないつもりだろうね。人生を歯科医師の生業にささげたんだよ。それでね……」
 アイナはため息をはさみ、さらにこう続けた。
「わたしから見たら、ミオちゃんとリサちゃん、どちらもすごく立派に見えちゃうのよね」
「あら、どうして?」
「だって、ミオちゃんは4人の子持ちママ。リサちゃんは自分の力で自分のクリニックを開業。一方わたしはパパ(夫)が開業するのについていく形で結婚したし、こどももひとりだし。わたしは見劣りするかな、って」
「アイナ、どの人生がいちばんいいかなんて、誰にもわからないものよ」
「え?」
「人の数だけ、人生の形があるんだから。その中でどの人生がいいかなんて、決められっこないわよ」
「そうかな」
「ミオちゃんは4人の子の分だけ苦労も多いはず。リサちゃんだって開業の反面、結婚を犠牲にしたかもしれないし」
「あ……」
「アイナだって十分立派よ。今日まで歯医者をがんばってやってきてるし、その中でハルナを産んで育ててきてるし、それに……何よりあなたには、確実に立派といえるものがあるじゃないの」
「え、何かな?」
「あなたの歯よ。永久歯に生え替わってから、あなたこれまで一度もムシ歯にならずにきてるじゃない」
「あ、そうか」
「お母さんにとっては、そんなアイナが自慢の娘。誇りに思えるわ」
「ありがとう、お母さん。これも40年前に、クリニカに出会ったのがきっかけかもね」
「クリニカが?」
「そう。歯みがきでクリニカ使いだしてから、歯垢をしっかり落とそうとの意識が高まったから。それでていねいな歯みがきを続けてきたのが要因だと思うの」
「もう40年前なのね、アイナにクリニカをすすめたの」
「ママー!」
 アイナとレイコの会話の途中、アイナの横から声が聞こえた。アイナのひとり娘、6歳のハルナだ。
「あら、ハルナ? ハルナなのね?」
 レイコは画面に入ってきた小さな女の子を見て、思わず確認した。
「ハルナ、今おばあちゃんとお話してるの。ほら、見てごらん」
 アイナは画面を指さした。それを見たハルナは、画面に向かって元気な声を送った。
「おばあちゃーん!」
「まあまあ、ハルナ、また大きくなったわねえ」
 レイコの顔がゆるんだ。
「うん! ハルナは大人だよ。もう大人用歯みがき粉使ってるもん! さっき大人用のクリニカで歯みがいたんだよ!」
 それを聞いたアイナは、両手でハルナの顔を引き寄せて自身の目に近づけた。
「じゃ、ママに見せてごらん」
「いーっ」
 ハルナは口を思い切り横に広げて歯を見せた。すかさずアイナはチェックする。
「まだだめ。みがき残しがあるわよ」
「えー、そんなー」
 ハルナはそう言いながらアイナに抱きついた。
「ちょっ、ハルナ、くっつかないの!」
「あらあら、甘えっ子さんねえ」
 画面に映るアイナとハルナの様子を見ながら、レイコはほほえましさからホッコリとした笑顔を浮かべていた。アイナは苦笑いしながら答える。
「ついつい甘やかしちゃうのよねー。なにせ40歳になってようやく授かった子だから」
 続いてアイナはハルナに向かって言った。
「ハルナ、もう一度みがきましょ。今度はママが仕上げみがきするからね」
「はーい」
 今度は画面のレイコに向かって言うアイナ。
「お母さん、それじゃ今日はこのへんで。またお話ししましょ」
「ええ、それじゃね」
「おばあちゃん、バイバーイ!」
 その晩のオンラインビデオ通話は、そこでひとまず終了となった。
 通話が終わった後、レイコはふと思い出した。40年前、自分と娘が交わした会話を。
「あのころと、そっくりねえ……」
 レイコはまぶたを閉じ、あのころの娘とのやりとりをそっと脳裏に浮かべながら、しみじみとした気分に浸るのだった。

――ママー 「しこー」のチェックー いーっ
――まだよくみがけてないわよ もう一度みがき直しましょ


(おわり)




※おまけ話

 休憩時間にスマートフォンをのぞくアイナ。偶然、パキスタンの通販サイトにたどり着く。
「ん? これ、パキスタンの歯みがき粉?」
 そこでアイナが見たものは……
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 パキスタンのプラチナム・ファーマセウティカルズ社が販売している歯みがき粉。見覚えのあるその姿に、思わずアイナは口走った。
「これ、かつて日本でライオンが販売してた『クリニカDFC』と、そっくりじゃないの!」
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「うーん、昔のデザインのクリニカが今、パキスタンにあるとはねー」
 昔見たものに出会えて懐かしい気分を味わった反面、あからさまなパクリを感じさせるそのデザインに戸惑う、複雑な心境となるアイナだった。