輝く笑顔のふたり 後編・歯医者さんの魔法

 とある中学校の昼休み、アヤメとキリカはいつものように一緒に弁当を食べていた。ふたりそれぞれ、机の端には歯みがきセットを入れた巾着袋が置かれている。今日もいつものように、ふたりは食べた後歯をみがくのだ。
 食べながらこれまたいつものように、ふたりは会話を交わす。この日はアヤメが切り出した。
「わたしね、昔ムシ歯になって痛ーい思いをしたことあるの。そのとき初めて歯医者さんに行ってね――」
 アヤメは自分のエピソードを語り始めた。


 それは6年前、アヤメが小学校1年生のときのことだった。
 ある夕方、アヤメは右の頬にジーンと小さな痛みを感じ、頬を押さえた。
「なんか痛いなー」
 その痛みの部位から、幼いながらも頭の中に知識としてとどめている、ひとつの要因が頭に浮かんだ。
「もしかして……これ、ムシ歯じゃ……」
 アヤメは一気に不安に陥った。今まで実際に経験したことはないものの、ムシ歯になると頬のあたりが痛み出すということは、幼稚園のときにムシ歯の話の紙芝居で見たことで知っていた。あのとき見た紙芝居で、歯をみがかなかった男の子がムシ歯菌に攻められてムシ歯になり、頬を腫らして痛いと泣いている絵を目にしたことで「ムシ歯ってあんなふうになっちゃうんだ」と恐怖を感じたのだった。
 もしかするとムシ歯になっているかもしれない。気になったアヤメだが、怖くて自分の口の中を鏡で見ることができなかった。
「大丈夫だよね」
 アヤメは自分に無理やりそう言い聞かせた。小さな痛みは続くものの、食事のときに激しく痛むといったことはなかった。それで安心したアヤメは、寝る前の歯みがきをした。そう、大丈夫だよ、歯をみがいていれば……そう思いながらアヤメは眠りについた。

 夜も深まったころ、突然アヤメの目が覚めた。右側の下の歯から激しい痛みが走る。
「痛い……」
 夕方には小さな痛みがジーンと続く程度だったのが、今はズキンズキンと響くように激しく痛む。その痛みでアヤメは眠れなくなった。
「痛い……痛いよ……」
 アヤメは両手で右頬を押さえ、目からポロポロと涙をこぼした。そして泣きながら布団から出て、別室で寝ている母親のもとへと歩いていった。
「お母さーん」
 就寝中の母に、アヤメが呼びかけた。その声で母が目を覚ました。
「んー? なーにー?」
 母の開きかけの目に映ったのは娘の姿。その娘が頬を手で押さえて泣いているのが、ぼんやりと見えた。
「お母さーん、歯が痛いよー」
「ええっ」
 アヤメの声を聞き、母はアヤメの状況を一瞬で把握した。母は起き上がり、急いで部屋の照明を点灯した。
「こっち来て、お口アーンて開けて見せて」
 アヤメは母の言に従い、口を開けた。母がアヤメの口の中をのぞきこむ。
「まあ、奥歯にムシ歯があるわ」
 アヤメの右下第2乳臼歯に、大きな穴が開いているのが見えた。ここから痛みが生じている。
「はー、アヤメが小学校へ入ったことで、わたしが仕上げの歯みがきをしなくなったら、途端にこれか……」
 母はそんなことをつぶやいた。そして母はアヤメに顔を近づけて言った。
「アヤメ、朝になったら、すぐに歯医者さんへ行きましょ」
「えー、ヤダよー」
「ヤダじゃないの。ムシ歯はね、放っておくとますます穴が大きくなって、もっと痛くなるのよ。だから行きましょ、歯医者さん。学校へは治療が終わった後に遅く行っていいから、ねっ」
「うー……」
 アヤメは静かにうなずいた。その夜アヤメはこども用の鎮痛薬を飲み、痛みをしのぐのだった。

 翌朝、アヤメの歯からは激しい痛みは消えていた。夜中あんなに泣くほど痛かったのに、薬の効果もあって今は痛みを感じない。
「あ、痛くない。これなら歯医者さんに行かなくていいや」
 朝食時、アヤメは母に言った。
「お母さん、わたしの歯、大丈夫だよ。だから今日歯医者さんはなしね」
「何言ってるの。歯に大きな穴が開いているのよ」
「でも、もう痛くないもん」
「今は痛くなくても、夜になったらまたズキズキ痛みだすわよ。だからこれから歯医者さんへ行って、治してもらわないと」
「えー、やっぱり行かなきゃダメ?」
「ダメ」
 アヤメは気が沈んだ。暗い気分のまま、アヤメは学校へ行く用意をしてランドセルを背負って、そのまま母に連れられ歯科医院へと行くのだった。

「ねえお母さん、やっぱりキュイーンて音がする機械、やるのかなあ?」
「さあ、わかんないなー」
 ここは歯科医院の待合室。診療開始時刻より10分ほど前に着き、受付をすませ診療のときを待っている最中だった。
 アヤメは治療を前にして、かなり不安な気持ちに支配されていた。以前に学校の友達から、歯科での治療の話を聞いていたためだった。その友達いわく、キュイーンと音がする機械を口の中に入れられ歯を削られる、歯にしみるような風を当てられる、変な臭いや味のする薬を歯に塗られる、と。それを思い出し、アヤメはいったいどんな恐ろしいことをされるのかと胸がドキドキしてきた。
 しばらくして、アヤメは名前を呼ばれた。すかさずアヤメは母にすがる。
「お母さん、一緒に来てー」
「甘えないの。もう大きくなったんだから、ひとりで行きなさい」
「はい……」
 アヤメは重い足取りで診療室に入った。

 独特の薬品のにおいがただよう歯科医院の診療室という空間、そこはアヤメが初めて目にするものばかりだった。何やら奇妙な形をしたイス、そのイスから伸びているように設置された照明灯、水が出る管にコップに流し台。アヤメはしばしユニットを見つめていた。目線がテーブルへと行く。
(長い棒みたいなのがいっぱい……うわ、注射がある……)
 テーブルにはさまざまな器具類がある。それらを見たアヤメはドキリとした。
 そしてイスの脇に差さっている銀色の細長い機械。その先端には、とがった針のようなものがついている。
(あれがキュイーンて音がする機械? あんなの口の中に入れるの?)
 そう思うアヤメは心臓が大きく拍動していくばかりだった。
「ここに座ってねー」
 歯科衛生士が優しい顔と口調でアヤメに言った。アヤメは言われたとおりに指定のユニットに座った。
「こんにちは、エプロンかけるね」
 衛生士がそう言いながら、アヤメの胸のあたりに紙エプロンをかけた。
 アヤメがイスに座って待っていると、歯科医師が姿を現した。ここの歯科医院の院長、白田(しろた)先生だ。
「こんにちは」
 白田先生は口にマスクをした状態で、アヤメにあいさつをした。見たところ30代後半~40代前半の好青年といった面持ちで、優しそうな目をしている男性の歯科医師だ。
(あ、優しそうな先生。これなら大丈夫かな)
 アヤメから不安な気持ちがいくらか消えた。白田先生はカルテを見ながら言う。
「お名前は……アヤメちゃんていうんだね」
 アヤメは小さくうなずいた。
「今日はどうしたのかな。どこの歯が痛いのかな」
 白田先生は優しい口調でそう言いながら、アヤメが座るイスの背もたれを倒した。アヤメの体はあお向けの状態となった。
「はい、大きくお口アーンてしてごらん」
 アヤメは口を開けた。真上に照明灯が光る。白田先生はデンタルミラーを手に持ち、それをアヤメの口の中へと入れて、アヤメの歯を診た。
「ははあ、ここにムシ歯があるね」
 白田先生はそう言うと、今度は何やら管のようなものを手に取った。スリーウェイシリンジと呼ばれるその管から出る勢いある空気を、アヤメのムシ歯にシューと当てた。
「いひゃっっ!!」
 アヤメの歯に痛みが走った。思わず叫んでしまう。
「ごめんごめん、痛かったかい?」
 白田先生の問いに、アヤメは口を開けたままうなずいた。それを受けた白田先生はこう言う。
「よし、じゃあこれから『痛くない魔法』をかけるからね」
「痛くない魔法?」
 アヤメは不思議に思った。
(歯医者さんが魔法をかけるの? いったいどんな魔法?)
 その間に白田先生が優しくアヤメに語りかける。
「アヤメちゃん、これからかける魔法は、治療のときに痛くなくなる魔法だよ。これをかければ痛くないから、治療はちっとも怖くないよ」
「ほんと!?」
「うん、本当だよ。それじゃ、お口を開けて。目もつぶっててね」
 白田先生の言うとおりにアヤメは口を開け、目を閉じた。
「じゃ、魔法、かけるよー」
 白田先生の声が聞こえた。アヤメは目を閉じている間、右下の歯ぐきに何かが入りこんでいっているかのような感触を覚えた。少し痛いような痛くないような、そんな感覚が走っていた。しばらくすると白田先生が言った。
「はい、魔法かけたよ。じゃ、いっぺんお口すすいでね」
 イスの背もたれが起こされ、アヤメの体は口すすぎ用の水の入ったコップに手が届くところまでいった。その水で口をすすぐ。しかし何かおかしい。水を含んでも思うように口が動かない。なんだか口がしびれているような感覚だ。アヤメが口をすすぐ水は、いくらかが口の外へと漏れ出していく。そのためアヤメの胸あたりにかけられた紙エプロンが、いくらか濡れてしまった。
 再びイスの背もたれが倒される。また照明灯がアヤメを照らす。再び口を開けるアヤメ。
「それじゃ、今からこの機械で、ムシ歯の悪いところを取っていくからね」
 白田先生が手に取ったのは、銀色の細長い機械――エアタービン。それをアヤメの口の中で作動させた。キュイイイイイイイン! アヤメが思っていたとおり、この機械が「キュイーンと音がする機械」だった。甲高い音を立てる。キュイイイイイイイン!!
(うわっ! やっぱりキュイーンやるんだ……!)
 音を聞いてアヤメはおびえた。強く目を閉じ、体をグッとこわばらせる。エアタービンのドリルがアヤメのムシ歯を削り始めた。
(怖……あ……あれ!?)
 歯に衝撃を感じるものの、痛みは走らない。
(痛くない……削られてるのに痛くない! ほんとに魔法だ!)
 アヤメは痛くないことからの安心感により、閉じた目が開き、こわばった体は緊張がほぐれてきた。
(よかった。痛くないから怖くない!)
 キュイイイイイインとアヤメの歯を削っていく白田先生がアヤメに話しかける。
「もう少しだから、がんばってねー」
「はあ」
 アヤメは口を開けたまま返事をした。しばらくするとエアタービンの音が止まった。また白田先生が話しかける。
「痛くなかったでしょ」
「うん! 魔法すごいね!」
 アヤメは大きくうなずきながら返答した。そしてその後、思ったより短い時間でその日のアヤメの治療が終わった。
「がんばったね、アヤメちゃん、偉いよ!」
「えへっ」
 白田先生にほめられて、上機嫌となるアヤメだった――――


「先生なら優しくて安心できるから、治療も怖くなかった。あの『痛くない魔法』って、不思議だったなあ。何をやったのかいまだ謎だけど」
「あー、あの、アヤメ……その魔法のことだけど……」
 語るアヤメの話に、キリカが申し訳なさそうに割って入った。
「え? 何?」
「それって、麻酔注射のことじゃないの?」
「えっ、まさか。だって針で刺す痛みは感じなかったわよ」
「歯医者さんの注射は、針を細くしてあってそんなに痛くないんだって。それに、そのとき口がしびれたように感じたんでしょ?」
「うん、そうだけど」
「だったら絶対に麻酔注射よ。その先生が目をつぶらせたのも、魔法が注射だとわからないようにするためよ、きっと」
「はー、てことは、わたしは初めての歯医者さんで、いきなり恐怖度の高い注射をクリアできたってことかー。白田先生、あなたの『魔法』に感謝ですっ」
 アヤメは天を仰ぐようなかっこうをした。
「でもいいなー、アヤメはいい歯医者さんに出会えて。わたしの場合なんか……」
「え、キリカも歯医者さんで治療したことあるの。よく歯みがいてるから、てっきり一度もムシ歯になったことないと思ってた」
「乳歯のときにムシ歯になったのよ。アヤメと同じで。でね、そのとき行った歯医者さん、もうとにかく怖いところだった。わたしがイヤがって泣くと先生が怒鳴るし、数人がかりでわたしを無理やりイスに押さえつけるし、それに注射のときは『魔法』なんてなくて、あからさまに注射を取り出して打つし……はっきり言って、心の傷になってる」
「うわー、ザンコクー」
「だから、さっきのアヤメの話聞いて、少しうらやましかった。わたしもそんないい先生に出会いたかった、って」
「キリカ……ごめん。わたしが歯医者さんの話したばかりに、そんなイヤなこと思い出させちゃって」
「ううん、気にしないで。だからわたし、『もう歯医者さんには行きたくないっ!』と思って、一生懸命歯みがきをするようになったの。そのおかげか、永久歯に生え変わってからは、一度もムシ歯にならずにすんでるわ」
 キリカはニコッと笑って歯を見せた。
「そうなんだー。で、わたしの話に戻るけど、白田先生は今でもわたしのかかりつけの歯医者さんで、年2回ムシ歯がないかチェックしてもらって、歯を強くする薬を塗ってもらっているの。だからわたしも、永久歯になってからはムシ歯なし!」
 アヤメはニッコリと歯を見せて笑いながら、両手人差し指で自分の口元を差した。
「あ、その薬って『フッ素』だよね」
「なんでキリカがわかるの?」
「だってほら、ここに書いてあるもん」
 キリカは自分の巾着袋から歯みがき粉を取り出した。チューブには「フッ素配合 歯質強化」と書かれており、キリカはその部分を指差してアヤメに見せた。
「えっ、歯を強くする薬が、歯みがき粉に入ってるの?」
「知らなかったの? あ、そういえばアヤメはついこないだまで、歯みがき粉つけずにみがいてたんだもんね。そりゃ知らないはずだわ」
「わたしのやつにも入ってる? そのフッ素」
「入ってるはずよ。見せて」
「はい、これ」
 アヤメも自分の歯みがき粉を取り出した。キリカが手に取り見る。
「アヤメのにも入ってるよ、フッ素。これでみがいてれば、歯が強くなってムシ歯を防げるよ」
「そっかー。あ、でもそれって、わざわざ歯医者さんでフッ素塗ってもらわなくても、歯みがき粉つけてみがけば同じ効果があるってことよね。もっと早く知ってればよかった」
「まあでも、今までのアヤメは歯医者さんのフッ素のおかげでムシ歯なかったんだから、それでよかったんじゃない?」
「そうだね。じゃキリカ、今からさっそく歯みがきに行きましょうか!」
「ましょうか!」
 ふたりがそう言葉を交わしたとき、ともに弁当を食べ終えていた。

 アヤメとキリカ、ふたりは今日も白い歯を輝かせ、笑顔を見せる。

(おわり)