とある中学校の昼休み。1年生のキリカとアヤメは、そろって昼食の弁当を食べ終えた。
「さっ、歯みがき歯みがき、と」
キリカはそう言いながら、小さな巾着袋に入った自分の歯みがきセットを取り出した。それを見てアヤメが言う。
「キリカ、あなた毎日お昼ごはんの後に歯みがきしてて、偉いよねー」
「だって、お口の中をスッキリさせたいもん。ムシ歯や歯肉炎や口臭の予防にもなるし、いいことづくめでしょ」
「だよね。だから今日からわたしも!」
アヤメもまた、歯みがきセットが入った巾着袋を出してきた。
「あ、アヤメも歯みがきするの?」
「そう。キリカに歯みがきでも『おつきあい』しちゃおっかなー、って思って」
「そっかー、ありがと。じゃ一緒にみがこっか」
「うん」
キリカとアヤメは互いに笑顔を交わし合った。それから少し間を置き、キリカはアヤメにたずねた。
「ねえアヤメ、歯みがきで初めて大人用の歯みがき粉を使ったとき『大人に近づいた』って思わなかった? これが『大人への一歩』だって」
「えっ? ああ、まあ……それは……」
いきなりの問いに、アヤメはとまどっている様子だった。それをよそに、キリカは自分のエピソードを語り始めるのだった。
「あのね、わたしが幼稚園のころの話だけど……」――――
キリカが幼稚園のとき、夏の行事でお泊まり会があった。園児たちが親元を離れ、幼稚園で集団で一泊する。その日は近所の風呂屋へ行って入浴、夕食でカレーを食べて、園庭でキャンプファイア。園児たちはいつもと違う時間を過ごした。
そして夜もふけ、就寝時刻が近づいてきた。寝る前にやることといえば、歯みがき。いつものように、キリカは家から歯ブラシとコップを持ってきていた。
園では普段から、園児たちがお昼のお弁当の後に歯みがきをしている。だがその際、歯みがき粉は持ってこないようにと園の先生から言われていた。そのため、園児たちは歯ブラシの毛を水でぬらすだけして歯をみがく。
なぜ歯みがき粉を持ってきてはダメなのか。その理由がキリカにはわからなかった。しかし先生の言うことなので、園児という立場上素直に従うしかなく、疑問に思いながらも歯みがき粉なしで歯をみがくしかなかった。
「はーいみんなー! それじゃ、寝る前に歯みがきするよー!」
担任の先生の声が聞こえた。
「はーい!!」
園児たちが元気よく返事をする。先生は話を続けた。
「いつもは歯みがきのとき、歯みがき粉をつけないでみがくけれど、お泊まり会の今日と明日は特別に歯みがき粉を使いまーす。先生が歯みがき粉を用意しているから、それをつけてみがいてねー」
先生の言葉を聞いたキリカはワクワクしてきた。幼稚園で歯みがき粉をつけて歯をみがける。家でやるのと同じように味を楽しみながらみがけるということで。
(先生が用意する歯みがき粉、何の味かな。いつも家で使っているイチゴ味かな、それともメロン味かな、ブドウ味かな)
キリカは期待をふくらませた。
園児たちが順番に並んで、先生がひとりずつ歯みがき粉を歯ブラシにつけていく。そのとき、何やらツーンと鼻にくる香りがしてきたのを、キリカは感じた。どこかで感じたことのある香りだと。
キリカの番になった。キリカは先生が持つ歯みがき粉のチューブを目にして、ある事実に気づいてしまった。それはまさに、キリカの両親が普段使っている大人用の歯みがき粉そのものだったのだ。いつもキリカはそれを家で見ているので、間違いなかった。
(えっ、大人用なの)
キリカがそう思ったとき、すでにキリカの歯ブラシの毛には、ミントの香りのする歯みがき粉がのっかってしまっていた。
「なんだ、イチゴでもメロンでもブドウでもないの……」
キリカは不満をもらした。
「でも仕方ない、これでみがこう」
目の前にある、今まで使ったことのない大人用歯みがき粉。はたして、どんな感じなのだろうか。
キリカは恐る恐る歯ブラシを口の中に入れた。シャカシャカシャカ。右下の奥歯をみがいていく。すると口の中に、今まで感じたことのない刺激と香りが広がった。
「…………!!」
キリカの歯ブラシを持つ手の動きが止まった。
(カラい! ピリピリする、スースーする)
キリカは歯ブラシをくわえたまま目をギュッと閉じた。目からうっすらと涙が浮かぶ。
(なんなの? なんなの? こんなにカラいので歯みがきしなきゃいけないの? でもみがかないとムシ歯になっちゃうし、ガマンしてみがくしかないよね)
キリカはそう思いながら目を開け、再び歯ブラシを動かした。
幼稚園での歯みがき指導で教わったとおりのみがき方で、歯をひととおりみがいていく。ずっと続くミントのピリピリスースー感と、こども用歯みがき粉よりもモコモコと立つ泡。味わったことのない口の中の違和感に耐えつつ、キリカは奥歯のかみ合わせから歯の表側・歯の裏側まで全部の歯をみがき終えた。そして流し台へ駆け足で向かった。
「べっ!!」
キリカは歯みがき粉の泡を流し台にはき出した。泡が口の中からなくなっても、まだスースーしている。キリカはコップの水を口に含みブクブクとすすいだ。コップの水がなくなるまでブクブクペッを繰り返した。だが口の中では、なおもスースーとした感じが残っている。
「まだなんかカラいなー」
キリカはハーッと息をはいた。かすかにミントの香りがした。大人はこんなカラい歯みがき粉で歯をみがいているのかと、キリカはここで初めて知ったのだった。
「歯みがき、カラかったねー」
「スーッとしてるー」
他の園児たちからも、そんな声が聞こえた。どうやら何人もが同じことを思ったようだ。
なぜ先生はこども用でなく、大人用歯みがき粉を持ってきたのか? キリカは疑問に思いながら、ふとんの上に寝転んだ。寝る時間となる頃には、もう口の中のスースー感は消えていて、キリカはそのまま眠りについたのだった。
翌朝。起きたらまた歯みがきだ。朝も前の晩と同じく、大人用歯みがき粉で歯をみがく。
キリカはまた恐る恐る歯ブラシを口にくわえた。今度は2回目ということもあって、どのような味なのかわかっているので、最初のときのように手の動きが止まることはなかったが、それでも口の中がカラいことに変わりはなかった。しかしこの朝の歯みがきは、前の晩のそれとは感覚が違っていた。
(やっぱりカラいけど、お口の中がスッキリするみたい)
朝起きたばかりのときのネバネバして気持ち悪い口の中が、キレイになっていくように感じられた。それにミントの刺激と香りで、眠たかった目がシャッキリと覚めていく。キリカは歯みがきを終えると、目が覚めて口の中もスッキリして、実にさわやかな思いでいっぱいとなった。
「お口、気持ちいいな。これだったら、これから大人用の歯みがき粉でみがこうかな。うちへ帰ったら、使ってみよっと」
そうつぶやくキリカだった――――
「あのお泊まり会で、初めて大人用歯みがき粉を使って、わたしは大人への一歩を踏み出したって感じたわね」
自分のエピソードを語り終えたキリカ。するとアヤメがたずねた。
「でもその幼稚園、歯みがき粉持ってきちゃダメだったのは、なんでなんだろね?」
「ああ、それね、後でわかったことなんだけど、こども用のフルーツ味だと、歯をみがかずに歯みがき粉をなめたり食べたりする子が多かったから、禁止にしたんだって。だからあのときの先生も、なめたり食べたりすることがないであろう大人用を持ってきたってこと」
「そうだったんだー」
会話の途中で、キリカは時計をちらりと見た。少しばかりあせりの表情を浮かべた。
「って、ついつい長話しちゃった。早く歯みがきしに行かなきゃ、昼休み終わっちゃうよ。行こっ」
キリカの言葉が後押しするかのように、ふたりは手洗い場へと向かっていった。
手洗い場で、キリカはいつもどおり歯ブラシと歯みがき粉をひとまず置いて、コップに水を入れた。
キリカは歯ブラシを握ると、ふと横にいるアヤメに目が移った。アヤメがどんな歯みがき道具を使っているのか、少しばかり気になったのだ。アヤメが手に持っているのは歯ブラシとコップ、だが歯みがき粉が見当たらない。キリカはそれに気づき、アヤメに聞いた。
「アヤメ、歯みがき粉は?」
「あ、持ってきてないの」
「忘れちゃった? いいよ、わたしのを貸してあげる」
「待って!」
キリカの親切をさえぎるかのごとく、アヤメは大きな声を出した。キリカがとまどう。
「ど、どうしたの……」
「忘れたんじゃないの、最初から持ってこなかったの」
「なんで?」
するとアヤメは、うつむき加減で静かに言った。
「わたし、大人用歯みがき粉つけて歯みがき、できないの……」
「えっ」
「小学校に入ったばかりのときに、初めて大人用を使ってみたの。でもミントの味がすごくピリピリして刺激が強くてみがけなくて、すぐにすすいじゃったの。それですっかり歯みがき粉そのものが苦手になっちゃって。それ以来ずっと歯ブラシに何もつけないで歯をみがいているの」
「そうなんだ……」
「だから、幼稚園のときにもう大人用使ってたっていうキリカの話聞いて、少しうらやましかった」
しまった、キリカはそう思った。
「ごめんねアヤメ。そうと知らないで、あんな話しちゃって」
「いいの。キリカは偉いよ。大人になってるよ。それに比べ、わたしなんてまだこども。もう中学生だってのに、大人への一歩も踏み出せない、お子ちゃまだよ」
すっかり自虐的になってしまっているアヤメを前に、キリカはなんとかしてあげたい思いに駆られていた。そこでキリカは思いきった手段に出た。
「だったら、ここで今、大人への一歩を踏み出してみない?」
キリカはそう言いながら、自分の歯みがき粉チューブをアヤメの眼前に差し出した。アヤメは一瞬ひるんだ。なおもキリカは迫る。
「この際、いい機会だから、思いきって挑戦してみようよ、アヤメ。あのときダメだったことも、今ならできるかもしれないし」
「う、うん……」
キリカの「押し」にアヤメは圧倒されたかっこうとなった。そしてアヤメは意を決した。
「わたし、やってみる」
キリカの歯みがき粉を自分の歯ブラシにつけたアヤメ。しばし歯ブラシを見つめていたが、ついに覚悟を決めて一気に口の中へと入れた。強く目を閉じながら、奥歯の外側をみがいていく。シャカシャカ……
「ん?」
アヤメの閉じた目が、徐々に開いてきた。
「アヤメ、どうかした?」
「カラく……ない。ミントの味だけど、そんなにカラくない。これならみがける!」
アヤメは歯ブラシを持つ手を勢いよく動かしだした。キリカはうれしくなり、思わず叫ぶように声を出した。
「ほら! できるじゃん。成長したから、ミントの味でも平気になったんだよ」
「うん、うん!」
歯をみがきながら、うれしそうにうなずくアヤメだった。それを受け、キリカもアヤメに続けと言わんばかりに、歯をみがき始めた。
「ハーッ!」
歯をみがき終え口をすすいだふたりは、そろって大きく息をはいた。アヤメが満面の笑みを浮かべて、キリカに言う。
「よかったー、昔使った歯みがき粉、すっごくカラかった記憶があるけど、今使ってみたら、思ったほどのカラさじゃなかった。すっごく気持ちいい!」
「もうこれで大人用でもだいじょうぶね」
「うん、わたしもようやく今、大人への一歩を踏み出したよ」
「それじゃ、これから一緒に大人へとどんどん歩いていきましょ」
ふたりは同時にニッコリと笑い、お互い白い歯を見せ合った。そのときキリカは、ひそかにこう思っていた。
(実はこの歯みがき粉、刺激ひかえめのソフトミントタイプで、元々そんなにカラくないのよねー。だからアヤメでも使えたわけで。でもこれはアヤメにはナイショにしとこ)
アヤメはそんなことなどツユ知らず、ウキウキ気分で廊下を歩いていく。
輝くふたつの笑顔は、これから大人への道を少しずつ進んでいくだろう。
(「後編・歯医者さんの魔法」へ続く)