ユリナは腹を押さえ、その場にうずくまった。急激な胃の痛みがユリナを襲っていた。
4月上旬。374万の人口を擁する大都市・横浜は春の訪れを感じさせる気候となっていた。西風(にしかぜ)中学校ではサクラの花びらが舞う中、入学式がおこなわれようとしていた。
ユリナはこの4月に西風中学校に入学する新入生だ。ユリナは式の前の集合場所である自分のクラスの教室へ行く途中だった。
「わたしもいよいよ今日から中学生。ガンバるぞ」
そう意気込んだユリナだが、校舎へ入ったとたん不安が彼女の中でわき上がった。
(うう……でもわたし、学校でうまくやっていける? 友達できるの? イジメにあったりしない? 先輩から目つけられない? やっぱり不安だよ……)
極度の心配性であるユリナ。期待よりも不安のほうが先行してしまい、足取りが重くなっていった。
「うっ……胃が……」
不安は一気に増大し緊張は高まり、やがてそれは胃を直撃。ユリナは胃がキリキリと痛みだし、途中廊下でうずくまって動けなくなってしまったのだ。
「ねえ、あなた、大丈夫?」
ユリナのそばで声が聞こえた。顔を上げると、そこにはひとりの女子生徒の姿が。見たところ上級生のようだ。
「は、はい……あつつつつ……」
ユリナはまた腹を押さえた。
「保健室へ行きましょ。ほら、背中乗って」
上級生はそう言ってその場にしゃがみ、背中を向け後ろに手を出した。
「おんぶ……ですか」
「動けないんでしょ。わたしが保健室へ連れてってあげるから。さあほら」
ユリナは恥ずかしいと思いながらも言に従い、上級生の背中に自分の身を預けた。上級生はユリナをおぶって保健室へと向かった。
「緊張しすぎて胃が痛くなっちゃったのね。よくいるのよ、こういう子が」
保健室で養護教諭が言う。ユリナはベッドの上で横になっていた。ベッドのそばには、さっきユリナを運んだ上級生もいる。ユリナは養護教諭にたずねた。
「あの、入学式は……」
「今ちょうど式の最中よ」
養護教諭の言葉を聞き、ユリナはガクゼンとした。
(ううー、サイアクー。入学式に出られなくて、初日からいきなり保健室登校になるなんて。最初からこんなんで、いったいわたしの中学校生活、どうなるのー!?)
「まあ、仕方ないわよ。胃の痛みが治まるまで、ここで休んでなさい」
養護教諭はそう言って、ベッドを仕切るカーテンの外に出た。上級生はベッドのそばにそのまま残っていた。ユリナは上半身を起こし、声を発した。
「あ、あの……ありがとうございました」
「いいのいいの、気にしなくて。あ、わたしは2年1組の冬川舞華(ふゆかわ まいか)。また何かあったらよろしくね」
舞華は気さくに言った。
「1年3組、春日井(かすがい)ユリナです」
ユリナは軽く頭を下げた。それからしばらくして、ユリナは布団をめくりベッドから降りた。
「あら、もう大丈夫?」
「はい、いくらか落ち着きました。入学式はもう出られないけど、せめて自分の教室には行きます」
「ならわたし、連れていくわ」
ユリナはそう言う舞華に同伴されて保健室を出た。
1年3組の教室までの道を歩く途中、舞華は突如足を止めた。
「春日井ユリナさん、っていったっけ?」
「はい」
そして舞華はユリナにこうたずねてきた。
「ねえ春日井さん、突然なんだけど、あなたバスケットボールに興味ないかな?」
ユリナはあせりの表情を見せた。
「バスケ……ですか? ダ、ダメですわたし。スポーツ得意じゃないし、練習ハードでキツそうだし、バスケなんてとてもとても……」
「違うの。あなたがやるんじゃないの」
「へ? じゃあ……」
「試合を観るの」
「観る? 試合を?」
「そう。バスケの試合を観て楽しむの」
ユリナは舞華の言葉にとまどった。「バスケの試合を観て楽しむ」というのは、いったいそれはどのように楽しむのか、見当もつかなかった。
「試合を観るって……楽しいですか」
ユリナは恐る恐るたずねた。
「ええ、楽しいわよ。わたしね、よくバスケの試合観に行って応援してるの。ここ横浜に本拠地を置く、プロバスケBBジャパンリーグの横浜バッカニアーズのね」
「プロのバスケなんてあるんですか」
「あら、知らなかった? それで、ここで出会えたのも何かの縁だから、お近づきの印にあなたをバッカニアーズの試合観戦に誘っちゃおうかなと思って」
「は、はあ……」
あまりに唐突に話を持ちかけられ、ユリナはとまどうばかり。すると舞華は自分の制服のポケットの中から何かを取り出した。入場券らしきものだ。
「これは試合のチケット。試合は今度の日曜日。当日あなたが行く場合、これをあなたにあげるわ。だからあなたはタダで観に行けるってこと。どうかな?」
「え、えっとー……」
「気にしなくて大丈夫。このチケット、どうせブースタークラブの特典でついてきたタダ券だから。誰かを誘うためのチケットだから」
次から次へ一方的に話を進める舞華を見て、ユリナは内心こう思っていた。
(え? え? どういうことこれ? なんでいきなりそんな話に? ど、どうすりゃいいのよ、わたし)
その間に舞華はユリナに言った。
「あ、いきなりこんなこと言われたって、困っちゃうよね。すぐに答えなんて出せないよね」
「ええ、まあそれはそうで……」
その後ふたりは教室まで来た。ユリナは舞華に頭を下げた。
「ありがとうございました」
「あ、待って」
舞華は手帳を取り出しページを1枚破って、そこに自分の名前と携帯電話の番号を書き、それをユリナに差し出した。
「これ、わたしのケータイの番号。当日行くかどうか決まったら、土曜日までにここに連絡してね。それじゃ」
舞華はそう言い残して去っていった。舞華の携帯電話の番号が書かれた紙を渡されたユリナの心の中はこうだった。
(電話番号渡されたって……わたしまだケータイ持ってないのよねー。あと、さっき先輩が言ってた『ブースター』って、なんのことだろう……)
「あー! もうどうしよう!」
帰宅したユリナは、自分の部屋の机の前で頭を抱えていた。
「プロバスケの試合観戦かあ……正直興味わかないなあ……でも冬川先輩はわたしを助けてくれた人。恩人なんだから、断るのも悪いみたいだし……うーん……」
ユリナは頭を抱えたまま、舞華の顔を思い浮かべた。そこでふと思った。舞華は自分を保健室まで連れて行ってくれた。保健室で自分につき添ってもくれた。教室までも一緒に行ってくれた。それほどまでしてくれた人だ。少なくとも悪い人ではないはずだ。
さらに思い出した。学校で初めて舞華と顔を合わせたときに、不思議な安心感を覚えたことを。初めて会ったのに自分に優しく話しかけてくれて、なぜだか安心感に包まれたような気になった。
そこでユリナは熟考してみた。
「バスケの試合はこの際置いといて、少なくとも先輩と一緒なら安心できそうかな。それなら行っても苦痛じゃないかも。それに、これがキッカケで先輩と友達になれるかもしれないし。学年違っても友達だって別にいいわよね」
それから結論が導き出された。日曜日、冬川先輩と一緒に試合を観に行こう。その答えを舞華に伝えるため、ユリナは家の電話へと足を進めていった。
日曜日の昼前。横浜バッカニアーズの試合が開催される、横浜パシフィックコロシアムの前にユリナは立っていた。ここで舞華と会うことになっている。
ユリナは約束の時間30分前から来ていた。遅刻をするかもしれない不安、また自分がまだ携帯電話を持っていなくて連絡をとれないことによる不安から、あまりに早く来てしまったのだ。
「本当に来ちゃったけど、楽しめるのかな? 冬川先輩がいるなら大丈夫と思いたいけど……」
ここへ来ても相変わらず不安が先行してしまうユリナだった。
「お待たせー」
ユリナがこの場に来てから約20分して、舞華がやってきた。
「先輩! こんにちは」
「こんにちは、ずいぶん早くに来たのね」
互いに言葉を交わすユリナと舞華。舞華は服の上にさらにTシャツを着ている。そこには横浜バッカニアーズのロゴが描かれている。それを見てユリナは言う。
「先輩、横浜バッカニアーズが好きなんですか」
「ええ、そうよ。BBジャパンリーグが始まったときからね」
「よく試合を観に行くんですか」
「うーん、そんな頻繁じゃないけど、観に行けるときに行くってところかなー。ブースタークラブには入ってるけど」
また「ブースター」の言葉を耳にしたユリナ。そこでユリナは舞華にたずねた。
「あの、その『ブースター』って、何ですか」
「バスケのファンのこと。元々ブースターってのは『後押しする人』とか『後援者』って意味なんだけど、バスケの世界ではファンを指す言葉なのよ」
そう説明する舞華は、うれしそうな表情を浮かべていた。
「ブースターって、そういうことですか!」
引っかかっていた疑問が解決したことで、ユリナは気持ちが晴ればれしたように感じた。
横浜パシフィックコロシアム。ここはプロバスケットボールBBジャパンリーグ・横浜バッカニアーズの本拠地である。ユリナは横浜で生まれ育ったが、ここへ来るのは生まれて初めてのことだった。
ユリナは舞華とともに横浜パシフィックコロシアムの入り口を通り、初めて中を目にした。目の前に広がるコート、観客席、場内で輝く照明、天井から吊り下げられている映像装置、あらゆるものがユリナにとって新鮮に映った。
「わあ……大きい。こんなの見るの初めて」
「ここは標準サイズよ。他のチームには横パシより大きいアリーナ持ってるところがあるわ」
コートでは選手たちが練習をしていた。試合開始まではまだ1時間以上あるが、この時点で観客はわりと多く入ってきており、なおも増え続けていた。
「けっこう観に来る人多いんですね。バスケがこんなに人気あるなんて思いませんでした」
ユリナは自分の率直な思いを口にした。それを聞いた舞華が言う。
「バスケはプロリーグができて日が浅いけど、それなりに観る人は増えているわよ。ただ野球やサッカーほどあまりテレビや新聞で取り上げられないから、あまり目立ってないだけ」
「あ、そうなんだ……すみません」
「いや、謝らなくていいけど。それより、まだティップオフまで時間あるから、何か食べる?」
「ティップオフ?」
「試合開始のこと」
ユリナにとってはこの場で見るもの聞くもの、あらゆることが初めてのことだった。
ユリナと舞華が観客席で唐揚げとフライドポテトを分け合って食べていると、場内にマイクからの音声が響き渡った。
「皆様、本日はここ横浜パシフィックコロシアムへご来場くださり、誠にありがとうございます! DJのKAI(カイ)です。よろしくお願いいたします!」
観客たちはコート中央にいるKAIに拍手を返した。
「え、え? なんなのあの人」
ユリナはKAIを見て言った。それに舞華が答える。
「場内DJよ。バスケの試合では欠かせない存在だわ」
「DJって……そういうのがスポーツの試合にいるんですね」
ユリナはまたしても、初めて目にする存在に衝撃を受けるのだった。さらにKAIの語りは続く。
「岡山プロミネンスブースターの皆様、ようこそ横浜へ! 本日は試合終了までどうぞ楽しんでいってください!」
この日横浜バッカニアーズが対戦する相手は、岡山プロミネンス。KAIの言葉に対し、コートサイドやゴール裏にいる岡山プロミネンスのブースターが拍手や歓声で返答していた。その様子を見たユリナが舞華にたずねた。
「岡山って、ここからだとけっこう遠いところですよね」
「いや、新幹線で岡山から新横浜までなら、3時間ちょっとで行けるわよ。しかもここは新横浜駅からわりと近いところ」
「でも、こんなに離れた距離のチーム同士が試合をやるのって、すごいことだなーと思います」
「それで驚いちゃいけないわ。BBジャパンリーグは北は北海道、南は沖縄にまでチームがあるんだから。その北海道と沖縄のチーム同士が対戦する試合だってあるのよ」
「ひえー、そうなんですか」
「今日来ている岡山のブースターさんたち、この試合終わったらベイブリッジを見に行ったり、中華街へ行ったりするんじゃないかしら。横パシでの試合観戦も横浜観光のひとつにしているんでしょうね」
「ここも観光名所のひとつなんだー」
そうした会話をしているうち、ユリナは気づいた。知らない間に舞華と親しげに会話ができるようになっていることに。その要因はとにもかくにも、舞華から発せられる「安心感オーラ」である。そしてこう思うのだった。
(よかった。先輩とうまく話ができるかどうか不安だったけど、会ってみれば難なく話できたじゃない。それにしても、先輩から出てくる安心感オーラの元は、いったい何なのかな? ま、今は深く考えずに先輩といよう)
試合開始時刻が近づいてくると、場内はいったん照明が消され暗くなった。すぐさまコートにスポットライトが当てられ、中央にはKAIの姿があった。
「さあ、本日もここ横パシにて、熱い闘いが繰り広げられようとしています。お待たせいたしました! BBジャパンリーグ公式戦、横浜バッカニアーズ vs 岡山プロミネンス、両チーム選手入場です! まずは岡山プロミネンスの選手から!」
岡山ブースターたちが一斉に歓声を上げた。コートの岡山サイドにスポットライトが当てられ、岡山プロミネンスの選手たちが入場してきた。アウェイチームのためか、KAIは淡々と選手たちを紹介していった。
「続きまして、海賊が勝利への船出をいたします。横浜バッカニアーズ、選手入場ーーーーーー!!」
さっきの岡山の選手たちに対するあっさりとした扱いとはうってかわって、KAIはテンションを上げていた。横浜サイドおよびコート中央にスポットライトが当てられ、音楽が場内に鳴り響き始めた。
コート上ではセクシーな体型をした女性たち数人が登場し、ダンスを披露。激しい音楽とともに機敏な動きのダンスを見せていた。その光景を見たユリナが舞華にたずねる。
「あの人たち、なんなんですか!?」
「チアチームよ。バッカニアーズの応援を先導していく、チアリーダーなの」
「ああいうダンスを見せるんですね」
「そりゃなんてったってチアだから。チアといえばまずダンス!だから」
「音楽が鳴ってダンスあって、まるでアイドルのステージみたい。バスケの試合で、こういうのがあるんだー」
チアチームのダンスのそばで、横浜バッカニアーズの選手たちが入場しようとしていた。
「さあ、我らの海賊たちよ! ホーム横パシで勝利を奪い取れーーーー!!」
テンション上がりまくりのKAI、今度は選手ひとりひとりを情を込めて熱く紹介していった。そのたびに沸き上がる場内。光に照らされたコートに観客が釘づけになっているかのようだった。
「この選手紹介見ていると、なんだかこっちまでテンション上がってくるよね! そう思わない? 春日井さん」
舞華がユリナにそう言ってきた。
「え、ええ、言われてみると確かに」
暗がりの中ではあったが、舞華もテンションを上げてうれしそうにしている様子がうかがえた。
選手紹介が終わると、場内の照明は元のとおり点灯された。
「さあ、いよいよ応援していくわよ」
舞華はもうすっかり臨戦態勢に入っていた。応援する気満々なのが見ていて伝わってくる。
「あの、応援って、いったいどうするんですか」
「試合始まったら実際にやってみせるから、そのときに教えてあげる」
笑顔でユリナの問いに答える舞華だった。
いよいよ試合開始だ。コートに両チームの選手が立つ。KAIが叫ぶ。
「ティーーーーップ、オーーーーフ!!」
試合が始まり、コート上では40分間の熱き闘いが繰り広げられようとしていた。バッカニアーズがボールを取り攻撃側となると、バッカニアーズブースターから手拍子とともに声援が響く。
「ゴーゴー、バックス! ゴーゴー、バックス!」
舞華もいっしょに声援を送る。そしてユリナにそっとこう教える。
「今みたいに、バッカニアーズが攻撃側になっているときは『ゴーゴー、バックス』と声援を送るのよ」
「バックスって?」
「バッカニアーズの通称。長いから短くして、バックス」
舞華のその言葉を聞いたユリナもマネをして声援を送った。しかしそれは「周囲がやっているから自分もやる」という具合の流されての行為であり、心からの声援とは言い難かった。
やがてバッカニアーズはボールを取られ、今度はプロミネンスが攻撃側となった。すると声援はさっきとは異なるものに変わっていた。
「ディーフェーンス! ディーフェーンス!」
また舞華はそっとユリナに教える。
「今度はこっちが守備側に回ったでしょ。そのときは『ディフェンス』と言うの。声援は攻撃のときと守備のときで使い分けるの」
「ただ声援を送ればいいってわけじゃないんですね」
一方、攻撃側となったプロミネンスのブースターからは次の声援が聞こえてくる。
「レッツゴー、プロミネンス! レッツゴー、プロミネンス!」
場内に響くお互いの声援を聞いたユリナはこう言った。
「声援合戦ですね、バスケの応援って」
「ある意味そう言えるかもね」
舞華がクスッと笑いながら答えた。
しばらくすると、バッカニアーズが攻撃をする際にプロミネンスが反則を犯した。そこでKAIが説明をおこなう。
「先ほどのプレイ、バッカニアーズのシュート動作中でのプロミネンスの反則ですので、バッカニアーズにフリースロー2本が与えらえます」
それを聞いたユリナがひと言。
「場内DJって、ああいう説明もやるんですね」
すかさず舞華が解説。
「だから試合では欠かせない存在なのよ。ああいうふうに反則があったことを説明する役目もあるから。場内DJが説明してくれることで、初めて観に来た人でもわかりやすいようにしてくれているの」
「はー、そこまで考えてくれているんですねー」
バッカニアーズのフリースローとなり、フリースローライン前に立つ選手がボールを両手に持ち構えていると、プロミネンスブースターたちが一斉に「ブーーーーーーーーー!!」と声を上げながら、手足をドンドンバンバンと鳴らしていった。それはまさに投球動作を妨害するかのような響きだった。
そんな光景を目にしたユリナは思わず言った。
「あ、あの人たちひどい! これからボール投げるのに、あんな汚い声と騒音で邪魔しようとするなんて!」
しかし舞華は冷静に答える。
「いいのいいの。これがフリースローのときの儀式なんだから」
「儀式?」
「そう。フリースローのときに相手ブースターがブーイングや騒音を飛ばすのは、バスケの世界ではお約束事項なのよ。選手たちもそれを承知の上でフリースローに臨んでいるから、これは邪魔してるんでもなんでもなくて、普通におこなわれることなの」
「お約束事項……ですか。でもやっぱり聞いててあまりよく思えないです」
「慣れればどうってことないわよ」
ユリナと舞華がそんな会話を交わしている間に、バッカニアーズは相手ブースターのブーイング・騒音の中でもフリースローを2本とも決めた。
試合は進む。バッカニアーズがやや優勢に進めていて、第1クォーター残り約3分のところで、バッカニアーズがスリーポイントシュートを決めた。
「スリィィィィーポイント!!」
KAIが叫ぶ。舞華もシュートが決まった瞬間を目にして興奮気味だ。
「やったー! スリーポイントよ、ユリナちゃん!」
「ユ、ユリナちゃん!?」
舞華はハッとした表情で、とっさに両手で自分の口を押さえた。
「あ、ご、ごめん。ついうれしくなって……気安かったわね」
「いいえ! わたし、そう呼ばれてうれしいです! 今まで家族以外の人からそう呼ばれたことがなかったもんで、うれしいんです! 呼んでください、ユリナちゃんって」
「わ、わかったわ。じゃこれからは、あなたのことは、ユリナちゃんね」
「あ、あの、わたしも先輩のこと、舞華さんって呼んでもいいですか?」
「いいわよ。これで対等の関係ね」
ユリナと舞華の関係がより親密になっていったところで、第1クォーターが終了した。23‐15。バッカニアーズがリードだ。
「第1と第2の間は5分の間隔。第2と第3の間は20分。第3と第4の間は5分よ」
舞華はユリナに説明をした。それに呼応するように、ユリナは舞華にひとつ質問をした。
「あの、ゴールの上に『24』って数字があるんですけど、あれ何なんですか?」
ユリナが言ったのは、ゴールのバックボードの上部に設置されている、数字が表示される小さな電光表示窓のことだった。
「ああ、あれはね、24秒ルールの時間を表示しているのよ」
「は?」
舞華の言うことが、ユリナにはさっぱり理解できないようだった。それを察知した舞華が、さらに説明を重ねる。
「あのね、バスケには『ボールを受けたら24秒以内にゴールへシュートしなければならない』というルールがあるの。これが24秒ルール。あの数字で24秒を測っているのよ。だからあの数字が0になったなら、反則ということ」
「そういうルールがあるんですね。知りませんでした」
ユリナは自分が知らないことを次々と舞華に説明してもらっていることで、この点でもまた舞華に対して安心感を持つのであった。
第2クォーターが始まった。前のクォーターで押され気味だったプロミネンスが、段々と巻き返しを見せてきた。それはプロミネンスの身長2メートルを超える外国籍選手が、豪快なダンクシュートを決めたことに現れていた。
攻め込まれてきた格好となったバッカニアーズが、たまらずタイムアウトを取った。いったん試合は中断し、両チームの選手たちはベンチへ戻ってコーチ陣の忠告を聞く。
その間、コートにはさっき試合開始前にダンスを披露していたチアチームが再びやってきた。そして再びチアダンスを披露するのであった。
「へえ、チアの人たちは試合中でもこうしてダンスを踊るんですね」
「タイムアウトの時間は、チアの絶好のパフォーマンスタイムよ」
ダンスを目にして、そう話すユリナと舞華だった。
第2クォーターを終えての得点は39‐38。プロミネンスがこのクォーターで23点を取って猛追し、1点差まで詰め寄っての折り返しとなった。
「大接戦だわ! もうどうなっちゃうの、この試合!」
「すごいですね! 敵の選手ですけど、ダンクシュートなんて初めて実際に見ました!」
舞華のみならず、ユリナまでも試合の展開に興奮している様子がうかがえた。
第2クォーターと第3クォーターの間は前半と後半の間でもあり、ハーフタイムが20分間ある。この時間に、観客の多くはトイレに行ったり休憩したり飲み食いしたりと、客席から動いていく。
ユリナと舞華はハーフタイムの間、楽しそうに話をしていた。
「ユリナちゃん、ここまで試合観ていて、どう?」
「はい! なんだかとっても楽しい気分です」
ユリナはすっかりバスケットボールの試合に魅せられた様子だった。
「ならよかった。いきなりお誘いしちゃって無理にここへ来させちゃって悪かったかな、とも思ったけど」
「いえいえ! 確かにわたし、はっきり言うと最初は乗り気じゃありませんでした。でも、なぜだかわからないんですが、ここへ来たときから、今までに感じたことのない、なんかキラキラ輝いてるようなものを次々と感じているんです。それで、わたしもいつの間にか引き込まれていくようで」
「キラキラ?」
「はい、言葉ではうまく説明できないんですが、そういうものが、ここにはたくさんあるようで」
「うふっ、ステキなことを考えるのね、ユリナちゃんて」
舞華の言葉に、ユリナはほんのりと顔を赤らめた。自分で言ったことが少し恥ずかしいと感じたユリナだったが、舞華から「ステキ」と言われたことは、素直にうれしいと思った。
そこでユリナは気づいた。舞華から発せられる安心感オーラの元が何なのかに。
(わかった。舞華さんがそばにいるとどうして安心できるのか。舞華さんは常に、他人を思いやって話や行動をしているからだ。体調の悪いわたしを保健室に連れていってくれたし、いつも優しい言葉で接してくれるし、わたしの知らないことについても、バカにせず親切に説明してくれるし、他人思いなんだ。その思いが安心感につながっているんだ。ステキな人だなあ。わたしも舞華さんのような人になりたい)
ユリナはそう思いながら理想の自分を思い浮かべ、上の空となっていた。
「ユリナちゃん、おーい、ユリナちゃーん」
舞華の言葉に、ユリナは我に返った。
「どうかした? なんかポーッとしてたみたいだけど」
「い、いえ、なんでもないです」
「さあ、もうすぐ後半の始まりよ。今度はコートチェンジするから、さっきとは変わって攻撃する方向が逆になるからね。とことん応援していくわよ!」
「はい!」
第3クォーター、プロミネンスは猛攻を始めた。怒涛の勢いでゴールを次々と決めていき、ついに逆転に成功。大きな喜びの声を上げるプロミネンスブースター。一方でバッカニアーズブースターからはため息混じりの落胆の声が発せられた。
「ああ……逆転されちゃった。こうなったら、もっともっと応援して、こっちも逆転よ。ゴーゴー、バックス!」
舞華は声援を送った。ユリナもそれに続く。
「ゴーゴー、バックス! ゴーゴー、バックス!」
ユリナの声援は、もう周囲に流されての義務的なものではなかった。本当に心からバッカニアーズの勝利を願って、選手たちを後押ししたい気持ちが込められた声援となっていた。
第3クォーターを終えて、得点は59‐63。プロミネンスが逆転してリード。このあとは、いよいよ第4クォーター。最後の10分間である。
「ゴーゴー、バックス! ゴーゴー、バックス!」
「レッツゴー、プロミネンス! レッツゴー、プロミネンス!」
「ディーフェーンス! ディーフェーンス!」
攻撃と守備が入れ替わるごとに、両方のブースターから最大級の声援が飛び交う。ブースターたちも応援合戦で対戦しているかのようだった。
残り少ない時間の中、バッカニアーズとプロミネンス、双方が全力でぶつかり合う。ブースターたちの声援が包み込む空間での熱き闘いの行方は――
試合終了のブザーが場内に鳴り響いた。73‐90。岡山プロミネンスの勝利。観客全体に対しては少数のプロミネンスブースターたちは、アウェイでの勝利ということもあってか大いに歓喜に沸いていた。
「負けちゃいましたね、バッカニアーズ」
ユリナがそっと言った。するとコートサイドやゴール裏にいるバッカニアーズブースターの集団から、声が発せられた。
「レッツゴー、プロミネンス! レッツゴー、プロミネンス!」
相手への声援の言葉だった。それを聞いたユリナは舞華に言った。
「あれ敵への応援じゃないですか」
「いいのよ、あれはエール交換。試合が終わったら、両方のブースターが相手への声援の言葉をお互いに送るのよ」
「どうしてですか」
「あくまで敵となるのは試合のときだけ、試合が終われば同じバスケが好きな者同士、お互い仲よくやろう、ってなことじゃないかな」
「ステキですね、それ」
続けてプロミネンスブースターの側からも、同様の声援が送られた。
「ゴーゴー、バックス! ゴーゴー、バックス!」
ユリナにとっては、この日は忘れられない素晴らしい思い出が残る日となった。たくさんの「初めて」を目と耳で感じたユリナの心は、今まさに洗われて清涼剤が加えられたような気分でいっぱいになっているかのようだった。
「ユリナちゃん、今日観に来て、バスケが好きになった?」
舞華がたずねた。それにユリナが元気に答える。
「はい! バスケの試合観戦がこんなに楽しいものだとは知りませんでした。舞華さん、今日は誘ってくれてありがとうございました!」
「そう言ってくれるとうれしいわ」
舞華はそう言うと、今度は急に静かな口調になった。
「そこで、ひとつお願いがあるんだけど……」
試合観戦に行った日の翌日、月曜日の放課後。ユリナは西風中学校の体育館の中にいた。
「男子バスケ部の……マネージャー……ですか……」
「そう。わたしといっしょにね。ユリナちゃんにやってもらいたくて」
ユリナの隣には舞華がいる。ふたりの目の前では、男子バスケットボール部の面々が練習を始めていた。舞華はこの部の女子マネージャーなのだ。
「舞華さん、ひょっとして、わたしを試合観戦に誘ったのは、それが本当の目的ですか……」
「実はそうなの。マネージャーがもうひとりぐらい欲しいと思って」
「そんな話、聞いてないんですけど」
すると舞華は両手を合わせてユリナに懇願した。
「強引なのはわかっているわ。でもお願いしたいのよ。マネージャーの後釜だって必要だから。わたしがユリナちゃんに会ったのも何かの縁かもって思って、それでバスケの魅力を知ってもらおうと、試合観戦に誘ったの。幸い、ユリナちゃんは気に入ってくれたようだったから、マネージャーお願いできるかな、って」
「うーん……でも……わたしなんかより、できる人がいると思います」
ユリナは渋った。確かにあのバスケ観戦をキッカケに、バスケを好きにはなった。しかしそのことと、バスケ部マネージャーをやることとは話が別だ。そんなことを思っていた。
「ユリナちゃんだから、頼んでいるのよ。マネージャーの仕事は、ユリナちゃんにピッタリだと思うわ。ねっ、お願い」
舞華は目を潤ませながら、ひたすらユリナに懇願の意を迫り続けた。舞華にそこまで強く頼まれては、断ることなど到底できないユリナであった。
「わ……わかりました」
ユリナの返答を受けて、舞華は笑みを浮かべた。しかしユリナはうつむきながら、こう言うのだった。
「でも、わたしやっぱり不安なんです。わたしなんかがマネージャーなんて大それた仕事をできるのかどうか。みんなの足を引っ張ってしまうんじゃないかって思ってしまうんです」
「大丈夫だって。仕事ならわたしがイチから教えてあげるから。最初は何もわからなくて当たり前なんだから」
「でも……でも……」
先行く不安を隠しきれずにいるユリナ。舞華は優しくこう言った。
「ユリナちゃん、マネージャーだってブースターよ」
「えっ」
「ブースターって後押しする人の意味だって言ったでしょ。マネージャーは部員たちを脇で支える役目。その支えを部員のチカラにしていく、いわば後押ししていく存在、ブースターなのよ」
「脇での……支え……」
「こないだの試合の応援のように、自分の思いを選手たちに伝えるつもりで声援を送るようにね。その声援が勝ちにつながってほしいけど、それがつながらないときだってある。いつもうまくいくとは限らないのよ。マネージャーの仕事だってこれと同じ。ときにはうまくいかないときもあるけど、部員のために自分が精いっぱいできることをやるのがマネージャー。失敗したっていいの。ただ部員を思う気持ちを持ってやってくれれば」
「それはなんとなくわかりますが……そもそもマネージャーにふさわしいですか? このわたしが」
「もちろんよ! だってユリナちゃんはもう立派なブースターだもん。こないだの試合であなたが見せた応援する姿、あれは本物だと確信したわ。その気持ちがあれば、きっとマネージャーだってできるはずよ」
「わたしは、立派なブースター……」
そこでユリナは思った。
(マネージャーになって、これから不安ではあるけれど、舞華さんが一緒なら不安もいくらか消えるかな。いや、わたし自身いつも不安だとビクビクしてちゃダメだよ。自分で不安をはらう勇気を持てるようにならなきゃ。そのためにも挑戦しよう、マネージャーに)
決心は固まった。ユリナはその思いを舞華に伝えた。
「舞華さん、わたし、やってみます。どうなるかわからないけど、やってみます!」
「そう! その意気よ」
「舞華さん、試合観るほうでも、マネージャーでも、一緒にブースターやりましょう」
「あ、それなんだけど……BBジャパンリーグのシーズンは5月までなのよ」
「えっ、じゃあ次のシーズンはいつから……」
「9月から。だから今シーズン終わってからそれまでの間は、マネージャー業に専念してね」
「は、はい」
しばらくすると、部員たちはいったん練習をやめ休憩に入った。そこで舞華が部員たちに呼びかけた。
「みなさーん! これから新しくうちの部に入るマネージャーを紹介しまーす!」
それを聞いた部員たちは一斉にユリナと舞華のもとへとやってきた。視線はユリナに集まり、興味深そうにユリナを見る部員たち。ユリナは少し照れくさくなった。
(わたしの中学校生活、入学初日につまづいちゃって、どうなるかと思ったけど、なんだか実りあるものになっていきそう。今これからが始まりだ)
ユリナはそう思いながら、集まった部員たちの前で笑顔を浮かべて自己紹介をするのだった。
「1年生の春日井ユリナです。今度男子バスケ部のマネージャーになります。まだまだわからないことだらけですが、精いっぱいやって、みなさんのブースターになりたいと思います! よろしくお願いします!!」
(おわり)